もてる男、修行中

1999年バンクーバー「パパ頑張って」


女性は意識しないままに自然と自分の子供達(子孫)を作り、守ってくれそうな男を選ぼうとすると最近インターネットの記事で読みました。

亡くなった妻は生前「昔、占い師がパパは病気しながらも長生きするタイプだと言っていた。死ぬまで頑張って働いてね!」「私は太く短く逝くから」と笑いながら繰り返し言っていました。そのたびに僕は「冗談じゃないよ、こちらこそお先に。」と答えていたように思います。

私達には娘が2人でき、それから12歳になる愛犬アンジュと2年前には長女が生んだ孫娘を残して妻は先に逝ってしまいました。1年半前に突然の脳出血に倒れた妻は何も私達に語ることができず、あっという間にこの世を去ってしまいましたが、最近読んだ記事で、妻が繰り返していた言葉を思い出しました。

明るく、美人で、料理も上手だった妻がなぜ自分を選んでくれたのか。無骨、無愛想、不器用と取り柄のない自分なのになぜと思います。その答えが、読んだ記事と妻の口癖から今の自分のやるべきことにつながってきました。

妻の生前は料理も掃除もゴミだしもほとんどやったことのない私ですが、たまに我が家に帰ってくる娘達へのささやかなサポート、毎日一緒にいるアンジュの面倒をしっかり見てねと、今日も写真の中の妻が笑いかけています。f:id:yoimai:20230610172306j:image

 

引越しをするたびに。

1989年9月16日、私の故郷広島で挙式をあげました。彼女は22歳、私は25歳。知り合って4年がたったものの、まだまだ社会人としても駆け出し、人間的にも幼いままの二人でした。結婚式がおわるとその日のうちに東京に飛行機で移動、埼玉県浦和のアパートで新婚生活をスタートしました。共稼ぎで、銀座の画廊に勤務している彼女のほうが給料は高く、彼女の実家のサポートに頼るばかりで、なかなか頭が上がらない私でした。

1991年2月に私は大手の航空会社に中途入社しました。埼玉から横浜の社宅に引越し、上大岡での二人の生活をスタート。1992年6月27日に長女を授かりました。彼女は妻から若いお母さんに。

1993年5月に勤務地の変更により愛知県小牧市に引越し。ほぼ新築の大きな高層マンションのような社宅に入居し、周囲の諸先輩、ご家族に助けられながら長女を囲んだ、まだまだ幼い家族生活を送りました。

1995年10月に米国カルフォルニア赴任を命ぜられ、スタンフォードにほど近い住宅地に一軒家を借りて、異国での3人暮らしが始まりました。ここでも周囲の皆さん、現地の米国人にも助けられ、青い空の下できらきらした毎日を過ごしました。1997年8月26日に次女を授かり、我が家は4人家族となりました。

サンフランシスコ

1999年に帰国。大宮の彼女の実家に3年間同居し、2002年8月に浦和に小さな一軒家を購入して引越ししました。住宅ローンを抱え、生活は楽ではなかったと思いますが、彼女はその家で、2人の娘と一匹の犬を育て、2021年11月に倒れるまで、一生懸命にだけどいつも笑顔で家族のことを支え続けてくれました。

最高の妻であり、ママであり、私の人生の伴侶でした。ありがとう。

 

運命の人

サークルの新人勧誘活動の終盤、おそらく最終日だったと思う。1985年私は大学3年生、サッカーサークルの幹事学年となっていた。大学キャンパスには連日、沢山の女子大生が溢れかえっていた。彼女達のお目当てはテニスなどのサークルで、マネジャーを募集しているむさ苦しいサッカーサークルにはなかなか立ち寄って、話しをまじめに聞いてくれる女子大生は少なかった。

その日もなかなか厳しい状況で、連日の男っぽいコンパで疲労感を感じる時間帯だったと思う。後輩が数名の女子大生を連れてきた。その中に、後に妻となる彼女がいた。姿勢よく、すっきりとポロシャツを着た清潔感のある彼女は周囲の着飾った子が多い中で、上品な輝きを放っていたように思う。僕は彼女にすぐに好意を抱いた。

それから試合の見学に何回か来てくれた彼女と僕はデートの約束をした。ゴールデンウィークの頃だったと思う。初デートは横浜、山下公園などを歩いた。すぐにサークルのマネジャーではなく、彼女としてつきあうようになってしまった。それから4年が経ち1989年9月に結婚、彼女から妻に彼女はなった。

 

 

お別れの日

2021年11月8日10時から妻の葬儀が執り行われました。場所は北浦和カトリック教会。20年くらい前に妻に導かれるように子供達と私が洗礼を受けた教会です。

11月2日に亡骸となって我が家に帰ってきた妻です。何が起きたのか十分には理解できていない状態で毎日のように亡骸を見ては、娘達と妻(娘達にとってはママ)が本当に亡くなった事実を確認していたように思います。葬儀は長女が葬儀会社や教会の皆さんと必死に調整を行ってくれました。そして次女が妻にぴったりだと選んだ歌「You are my sushine」(Jasmine Thompson)を流しながら最愛の妻との別れの儀式は進みました。

弔問に来ていただいた皆さんへのメッセージ原文です。 

 本日はご多忙の中、私たちの大好きで、大切な母(妻)であるマリア ベルナデッタ ヨハンナ パウラ ○○はるみの葬儀ミサ・お別れの場に足を運んで頂き、誠にありがとうございます。

本当に突然の帰天でしたので、日頃から母を支えてくださり、暖かくお付き合い頂いた皆様にご挨拶ができないまま旅立つことになった本人に代わり心からの感謝をお伝えしたいと思っております。

11月1日の母はいつもと変わらない1日をスタートさせ、仕事を終えて家に帰り、娘たちと恋バナを楽しみ、冗談を言いあい、愛犬と遊び、初孫とお風呂に入りました。その後夕飯の準備中に脳内出血を起こし、異変に気付いた父が呼んだ救急車で病院に向かったものの、処置することもできず、翌日の午前11時20分に54年の生涯を終えることとなりました。

残された家族3人で愛しい母を想う時間の中で、母を愛してくださった多くのご友人の温かいお気持ちや、我々家族の心の中に生きる母の真心を感じています。

母の少女の様な清純さと太陽の様な朗らかさを心の内に感じながら、母が大切にしていた日常の続きを、家族みんな仲良く生きていこうと思います。生きて、生きて、生き続ければきっとまた会えると信じます。

You’re my sunshine! Love you forever!

家族一同 2021年11月8日

 

火葬場からお骨になった妻を抱いて教会に戻った際に、少し朱の混じったような明るい日差しに教会が包まれていました。自宅に帰ってからは寂しいけど忙しい毎日が始まるのですが、次回は妻との出会いを思い出して記載したいと思います。

火葬場から戻ったときの教会

 

あの日

2021年11月2日に30年以上連れ添った妻が54歳で昇天しました。脳内出血による急逝でした。前日11月1日は月曜日、朝から変な一日でした。ただ、NHK連続テレビ小説の「カムカムエブリバディ」が始まり、一回目を一緒に見ることができました。

「あの日」は突然来ました。

いつも通り、彼女はファミリーサポートの仕事に朝から出かけました。私はコロナ禍のため在宅勤務。夕方家に帰ってきた彼女はいつも通り、コーヒーをそっと仕事部屋へ運んでくれました。その日はメールシステムの調子が悪く、部屋の蛍光灯も時折チラチラするなど調子があがらない一日だったので、コーヒーのお礼や「お帰り」の一言もそこそこに、私はだらだらとパソコンを操作し続けていました。

生後6か月の初孫が長女と一緒に家にいた時期だったので、いつも通り孫を夕方お風呂に入れた後に、体調不良ははじまったようです。私は仕事が一段落し、台所で夕食の準備をしていた彼女に声をかけましたが、不安そうな目つきがあとから気になったものの、お風呂に入りました。お風呂から出て台所の様子を見ると、いつもは手際のよい彼女ですが、食事の準備が進んでおらず、そこでも少し気になったものの、仕事を続けようと仕事部屋に戻っていました。

その後しばらくして、彼女は「体調が悪いから今日はもう寝るね」といって仕事部屋に入って来ましたが、その表情、様子がおかしく、病院につれていく必要をはじめて感じました。119番に電話し、容態を説明したところ、念のため救急車を出動させますと言われたので、到着を彼女と待ちました。救急車が到着して、乗り込むのも自分ででき、救急車の中でも問診に自分で答えていました。

到着した病院の家族の待機場所で一人で待っていましたが、1時間半くらい経過して名前を呼ばれ、医師から「脳内の出血が激しく、処置のしようがない。申し訳ない」と告げられました。私はまさかと気が動転しましたが、受け入れるしかありませんでした。なんとか「なるべく苦しまないように」とお願いしました。長女と次女もかけつけ、翌日のお昼前まで彼女の心臓が停止するまで、意識は戻らない彼女に3人で声をかけ続けました。コロナの規制があり、病室には限定的にしか入れませんでしたが、最後の時間は4人で過ごすことはできました。

結婚生活は約32年、彼女との出会いや生活、思い出を記録に残したい思いで、ブログをはじめました。f:id:yoimai:20230605221627j:image